理解できない
3月20日には、上原氏の事務所に民主党の原口一博元総務相や大串博志内閣府政務官らが集まり、原発事故対応を協議していた。そこで原口氏が携帯電話で菅氏に連絡し、上原氏に取り次いだところ、こんなやりとりがあった。
菅氏「あなたのリポートには目を通したが、技術的に理解できない。外部冷却装置はどこにつけるのか。私がどこにつけていいのか分からずに決定はできない」
上原氏「そんなことは首相が考えるべきことではないはずだ。技術的に分からずとも、やるやらないの決断はできるでしょう」
すると、菅氏は突然「なにいっ!」と激高して、日本語かどうかも聞き取れない言葉で延々とわめき散らしたという。
「ショックを受け、本当に怖くなった。一国の首相がこんな状態では国は危ないと感じた」
上原氏はこう振り返る。菅氏の意味不明の怒声はその場の議員らにも聞こえ、みんなが身ぶりで電話をやめるよう伝えてきた。
「(民主党は)なんでこんな人を首相にしたのか」
原口氏らをこう叱った上原氏は以後、「菅氏は早く辞めさせなければ」と確信したという。
今回の国会事故調の参考人聴取で菅氏は、政府外部からのセカンドオピニオン活用について「思いつき的な話もあったので、全部が実行されたわけではない」と語った。だが、中には菅氏の知識・能力では理解できないだけで、有効な対策もあったのではないか。
マイクロ管理
「東工大出身の理工系の首相ということで相当前へ出すぎたように見える。気負いはなかったか」
参考人聴取では、科学ジャーナリストの田中三彦委員が菅氏にこう問いかける場面もあった。
菅氏はこれを否定したが、2月に公表された民間事故調調査報告書によると、第1原発の非常用電源であるディーゼル発電機が壊れ、代替バッテリーが必要と判明した際、菅氏は異様な行動をとった。自分の携帯電話で担当者に「大きさは」「縦横何メートル」「重さは」などと直接質問し、熱心にメモをとっていたのだ。
官邸筋によるとこのとき、ふつうの政治家ならばまず「その事態にどう手を打つか」を考えるところを、菅氏は「なぜディーゼル発電機が壊れたか」に異常に関心を示し、議論がなかなか進展しなかったとされる。
菅氏はまた、国会事故調の参考人聴取で、事故翌日の3月12日早朝に第1原発を視察した意義についてこう述べ、失笑を買った。
「現場の考え方や見方を知る上で、顔と名前が一致したことは極めて大きなことだった」
国家の非常時に、現場の責任者の顔まで自分で見て確かめ、名前と一致させなければ納得できないトップとはどういう存在か。部下の業務を過剰に管理・介入したがる悪しき「マイクロマネジメント」の典型がここにある。
己の限界も足らざるところも知らぬ半可通が全て仕切ろうとし、必然的に多くの失策を犯した。それが官邸の事故対応の本質だったのだろう。
(あびる るい)
菅直人前首相は28日午後の国会の東京電力福島原発事故調査委員会(国会事故調)で、事故発生直後の対応について、「(昨年3月)15日に(東電との)統合対策本部を立ち上げるまで、日々、新たな事象が起こった。その段階で制度的に全体のグランドデザインを考える余裕は率直のところなかった」と述べた。
****************以下は、平成23年3月12日〜3月18日 **************
平成23年3月12日
福島第一原発概要説明を受ける菅総理
菅首相が3月11日午後2時46分発生の東日本大震災の翌12日午前6時過ぎ、自衛隊のヘリコプターに搭乗、福島第一原子力発電所を視察したが、そのことが東電側の事故に対する初動対応を遅らせたのではないかのと批判が持ち上がっている。昨3月28日午後参院予算委で自民党の佐藤ゆかり議員がこの件に関して追及した。
だが、残念ながら菅首相も他の主だった閣僚も出席していなかった。菅首相からしたら幸運にも難を逃れることができたということだったかもしれないが、出席した途端に同じ追及を受ける運命であることに変わりはないから、一時的な難逃れに過ぎないが、他の閣僚の熱意もない事務的な答弁と噛み合わない結果で終わった。
但し原子力安全委員会委員長の答弁の中に菅首相の発言に関して後世に残る新しい発見があった。
参院予算委員会の質疑答弁のその箇所のみを抜いて文字化してみた。
3月28日(2011年)午後参院予算委。 佐藤ゆかり「今回総理が被災した福島原発をですね、えー、ヘリで視察をされた。早速視察をされたわけでして、保安員も同行されたわけですが、そのことによってですね、この原発事故が勃発した衝動が遅れたという指摘も一部に出ているわけであります。 ま、ヘリで総理が来られますと、色々、おー、その危険な放射性物質を含む、蒸気を発散させる、ま、いわゆるベント、という作業も初動として立ち遅れた、言うようような意見も現場から上がっているようでありますが、まあ、その一方でですね、東電側も、えー、総理が、当初は10キロ圏内すぐに退避だと。 えー、あるいは、あー、このー、おー、真水では足りないだろうから、海水まで入れて放水するんだということを、直後にご発言されたというような観測もあるわけでございます。 一方で、そういう総理の、おー、ご意向に対しては、伝わった東電側は、いや、海水を入れられては、もう炉心が使えなくなってしまう、それは困ると、いうことで、激しく抵抗をしたということも観測として伝えられている通りであります。 まあ、いわばこの東電側の激しい抵抗、を、実は経産副大臣、それはご存知でございましたでしょうか。そして保安院の同行者の方、あー、総理がヘリで視察に行かれて、現場で困惑したと、ご存知であったか、それぞれお伺いしたいと思います」 池田経産副大臣「えー、先ず、事故発生、エ、翌日、早朝、総理が、エ、自衛隊のヘリで現地に行きました。あー、同行者は保安院ではなくて、安全委員会の委員長お一人と、あとは官邸の関係者と。 えー、そして初動態勢の色々な問題でございますが、これは、あー、あー、事後に予断を持たずに、決定的な検証を行う必要があると思いますが、そこでリビューをされると、私は理解しております。 えー、ベントの時期も、おー、最初の段階で、えー、早くやらなければならないということでは、関係者の見解は一致していたと、私は、あー、思います。また、あー、放水等、に、つきましても、おー、東電の、要請などもありまして、初期の段階から、手を尽くしていたことも、事実で、えーあります。 海水注入について抵抗したとか、何か、そういう、えー、話が巷では、あー、出ておりますが、あー、私の知る限り、そういうことは承知を、しておりません」 佐藤ゆかり「同行された、総理のヘリに同行された、あー、原子力安全委員会の方にご答弁願います」 斑目原子力安全委員会委員長「原子力安全委員会委員長の斑目でございます。えー、えー、エ、この事故が起こった直後に、安全委員会としては、えー、この問題を収束させるのは、えー、エ、いずれにしろ水を、注入すること。そして、えー、えー、発生する蒸気をベントするしかない、ということは即座に判断をしてございまして、えー、そのことについては、えー、総理ではなくて、確かあんときは、海江田大臣だったと思いますが、にお伝えしてございます。 で、このことは、まあ、私がお伝えをする前から、海江田大臣の方が承知で、えー、既に東京電力の方に対して、えー、指示済みであったというふうに思っております。 で、その後、えー、どういうわけか、あのー、私のところにさっぱり上がっこないんでございますが、えー、なかなかベントが上がっ、されていない、という、うー、うー、う、ことは確かな事実、でございます。 それからもう一つ、総理と同行して、えー、ま、あの、そこは、あの、えー、総理が、『原子力について少し勉強したい』ということで私が同行したわけでございます。 現地に於いてですね、あの、何か混乱があったというふうには私は承知をいたしておりません」 佐藤ゆかり「まあ、あの、勉強している暇ではないんですねぇ。本当に地元の危機、緊急対応の初動がこれによって遅れたと、するならば、エ、本当にこれは人災とも言わざるを得ない、わけでありますね。 えー、私は今、申し上げたいことはですね、要は、このある意味では東電任せにすっかりしていた初動の遅れ。そして政府は政府はですね、訳の分からない複雑怪奇に様々な、この緊急危機、えー、対応ぶ、部署が出来上がっていると。 まあ、あのいくつかたくさんあって、私は訳、分からないんですが、あー、まず、その総理本部長を務める東日本大地震緊急災害対策本部。えー、それから原子力対策本部、これがあります。 それから、えかな、えかな、枝野官房長官がー、本部長を務める、電力需給、えー、対策本部、がある。そして原発対応についてですはね、さらに原子力対策本部と併設して、福島原子力事故対策統合本部。そしてさらに現地にはですね、原子力災害対、現地対策本部。それにこの、原子力安全保安院が本人がさらに関わっていて、それぞれに対してさらに、えー、原子力安全委員会という存在があるんですね。 一体誰が何をコントロール、いつ、どのようにしているのか、まーったく見えてこないんです。エ、それが国民の不安、の大きな要因ではないかというふうに思うわけでありますが、あ、それで、この司令塔が不在。 えー、一元化できない司令塔が不在であると言うことに今回の危機対応の態勢的な、あー、問題というものを認識されないでしょうか。全体の担当、総理に聞きたいんですが、今日は来られないんで、全体の担当を、内閣全体でお答えいただければと」 東祥三内閣府副大臣「佐藤さんの、あの、ご質問にお答えしたいと思いますが、限られた範囲の答弁になるかもしれませんが、あのー、おー、基本的にはご指摘のとおり、あのー、自然現象を、起因とする災害。そしてまた自然現象ではない、いわゆる事故、災害、というものが、えー、災害対策基本法の中に織り込められていると。 で、それに基づいて、その長が、総理大臣で、ありますから、一方に於いて、今ご指摘のとおり、その緊急対策、本部、その本部長は総理であり、そしてその一方に於いて、今度原子力、発電所の、事故の問題でありますから、原子力対策本部。その長が総理大臣であって、その仕組みの中で動いていると、いうふうに理解して。おります」 佐藤ゆかり「まあ、あのー、現場から上がっている報道ニュースからするとですね、今、ご答弁いただいたような態勢の元で一元化されて、なされていると、とっても印象として、持ちません――」 |
地震発生から福島原発事故の推移、政府対応の推移について3月28日東京新聞のWEB記事が詳しく取上げているから時系列で示してみる。
《保安院 炉心溶融 震災当日に予測》(東京新聞/2011年3月28日
朝刊)
3月11日午後2時46分 地震発生
11日午後9時23分 (記事には書いていないが、政府は3キロ以内は避難指示、3キロから10キロは屋内退避の指示を出している。)
11日午後10時 経済産業省原子力安全・保安院「福島第一(原発)2号機の今後のプラント状況の評価結果」を策定。
(炉内への注水機能停止で50分後に「炉心露出」が起き、12日午前零時50分には炉心溶融である「燃料溶融」に至るとの予測を示し、午前3時20分には放射性物質を含んだ蒸気を排出する応急措置「ベント」を行うとの方針を決定。)
保安院当局者「最悪の事態を予測した策定」
11日日午後10十時半 菅首相に評価結果を説明
12日未明 放射性ヨウ素や高いレベルの放射線を検出。
原子炉の圧力を低下させる応急措置をとる方針を決定。
(このヨウ素検出は溶融の前段である「炉心損傷」を示す危険な兆候で、政府内専門家の間では危機感が高まり、応急措置の即時実施が迫られる緊迫を要した局面だったという。)
12日早朝 菅首相、原子力安全委員会班目(まだらめ)春樹委員長と予定通り福島第一原発を視察。
12日午前1時前 1号機の原子炉格納容器内の圧力が異常上昇。
12日午前4時頃 1号機の中央制御室で毎時150マイクロシーベルトのガンマ線検出。電幹部と班目氏らは1、2号機の炉内圧力を下げるため、ベントの必要性を確認、保安院にベント実施を相談。
12日午前5時44分 菅首相、原発の半径10キロ圏内からの退避を指示。
12日午前5時頃 原発正門付近でヨウ素を検出。
事態悪化を受け、東電幹部と班目氏らが協議し、1、2号機の炉内圧力を下げるため、ベントの必要性を確認。
12日午前7時11分 菅首相、福島原発入り。
12日午前8時4分 菅首相、視察終了。
12日午前8時30分 東電、ベント実施を政府に通報。
12日午前9時4分 東電、ベント着手
12日午後2時30分 ベント排出開始。
(排出には二つの弁を開く必要があるが、備え付けの空気圧縮ボンベの不調で一つが開かなかった上、代替用の空気圧縮機の調達に約四時間を費やしたため。)
12日午後4時 東電幹部と班目氏らは保安院に実施を相談。
記事は次のとおり解説している。〈政府与党内からは、溶融の兆候が表れた非常時の視察敢行で、応急措置の実施を含めた政策決定に遅れが生じたとの見方も出ている。初動判断のミスで事態深刻化を招いた可能性があり、首相と班目氏の責任が問われそうだ。〉
与党関係者「首相の視察でベント実施の手続きが遅れた」
これは菅首相批判派の声に違いない。支持派がこのように言うはずはないからだ。
政府当局者「ベントで現場の首相を被ばくさせられない」
この判断が現場作業にも影響が出たとの見方を示したと書いている。
斑目原子力安全委員会委員長(共同通信に対する書面回答)「現在、事態の収束に全力を傾注している。一方、社会への説明責任を果たすことの重要性も重々認識している。今般の質問には答える立場にないものも含まれているが、プラントの状況は時々刻々と変化し、対応に当たっては予断を許さない状況にあり、正確な見解を申し述べることが必要と考えているものの、十分に吟味し、責任を持った回答を作成できる状況にない。今後、状況が一応の安定を取り戻した状態となり、対応が可能となった段階で対応を行う。ご理解のほどよろしくお願いします」
東京電力広報担当者「(応急措置であるベントの実施に時間がかかったのは)福島第一原発の現場の放射線量が高かったから(ベント実施を)入念に検討したためだ。ケーブルの仮設など準備作業に時間を要した。(ベントのタイミングと)首相の来訪は関係がない」――
池田経産副大臣も斑目委員長も事故解決後に検証を行う姿勢を一応は見せている
菅首相自身は国会で同追及を受けようとも否定するのは目に見えている。首相シンパの枝野詭弁家官房長官も菅首相擁護の立場から28日午後の記者会見で否定している。
無能な首相を擁護することは国民に対する冒涜であるが、自己保身上、そんなことは構わない。
《枝野官房長官の会見全文〈28日午後4時〉》(東京新聞/asahi.com/2011年3月28日19時42分) 【首相の原発視察】 ――保安院から「燃料棒が露出する」との危険な予測を聞きながら、首相が現地を視察した判断は正しかったか。 これは地震発生の夜だが、原子力発電所の冷却機能がうまくいかなくなった、こういった事故になったという情報が入って以降、東電からも、あるいは原子力安全・保安院を通じても情報は入ってはきたが、なかなか現地の状況がしっかりと入ってこない、現地の状況が把握を出来ない。今朝も言ったとおり、ベント等についても22時すぎ以降、いつどうやってベントを始めるのか等について、早く進めるべきではないかということを申し伝えてもなかなか答えが返ってこないという状況のなかにあって、まさにそうした現場の状況が東京で十分に把握ができないという状況の中で現地の状況を認識をし、特に現地の対応に当たっている現場の責任者、担当者の皆さんとしっかりと直接コミュニケーションができるような状況をつくらないといけないという問題意識があったという風に、決めたのは総理だが、私はそういう認識で総理は行ったと認識している。 ――危険が予測される中で官邸で危機管理を進める判断もあったのではないか。 これは原子力発電所の事故は一歩間違えれば、もちろん現状の事故の状況でも大変大きな広範な皆さんにご迷惑をおかけして申し訳ない状況だと思っているが、一歩間違えれば本当に大変さらに大きな影響を及ぼしかねない問題であるという問題意識のもとで、しっかりと最終判断をする総理が現地の状況を把握出来ないという状況の中では、責任を持った対応が出来ないという問題意識があったと理解している。 |
枝野官房長官は、菅首相は東京にいては現場の状況が十分に把握できない。現場と直接コミュニケーションを取ることができる状況をつくるという問題意識から視察した、私はそういうふうに認識していると言っている。
さすが詭弁家である。現場と直接コミュニケーションを取るとしても、東電側から原子炉は現在こういう状況に立ちいっています、これからこういった対策を講じる方針ですと説明を受け、菅首相が早急に問題を解決し、収束させて貰いたいとの要望を示すぐらいのものだろう。
他に何があるのか。視察時間は50分だそうだが、長々と説明を受けたとしても、そのとき必要なことは東電上層部、もしくは経済産業省原子力安全・保安院の事故対応の的確な指示とその指示に従った実働部隊の的確な行動であって、菅首相がシャシャリ出ても直接的な事故対応の実働部隊に取って代わることができるわけではないし、実働部隊の指揮官に取って代わることもできないはずだ。
菅首相がすべきことは官邸に原子力事故とその対策の専門家を集めておいて、東電側から事前・事後、その途中過程の報告を受け、その報告に基づいて専門家と関係閣僚を交えて協議することであって、そこに視察という関与事項は必要ない事柄のはずだ。
協議の結果、東電側の報告に不足や懸念事項が存在するなら、その都度アドバイスを行うか、あるいは新たな対策として政府の力を用いずして必要措置を行い得ない場合は、政府が早急に手配を講じるといったことであろう。
自衛隊の出動、消防隊の出動等々である。
果して視察して直接コミュニケーションを取って、事後どれ程役に立ったというのだろう。視察後も官邸と東電の間だけではなく、東電内でも情報伝達の遅れ、情報共有の不履行があったはずだ。
実際に首相の視察が東電側の事故対応の初動遅れを招いたかどうかは今後の検証を待たなければならないが、何よりも問題なのは視察理由を本人は「原子力について少し勉強したい」としていたことである。
佐藤ゆかり議員は「まあ、あの、勉強している暇ではないんですねぇ」で片付けているが、また多くがこの発言を問題発言として取上げていると思うが、自分なりの解釈を施してみる。
菅首相はすべての問題に対する最終責任者なのは断るまでもない。原子炉事故対策、地震被災者支援対策、救命対策、復興対策は関連する部分はあっても、それぞれ別個の対策ではあるが、菅首相はすべての問題に対する最終責任者である以上、同時併行で関与・対応していかなければならない関係にあり、そうである以上、一つの対策に関わっているときでも、他のすべての対策を背負いつつ、それぞれの状況を念頭に置いた状態で全体のうちの一つとして行動し、思考しなければならないはずだ。
いわば福島原発に限った視察であっても、他の地震被災地の支援問題等を背中に背負い、念頭に置いた視察でなければならなかった。だからこそ、このような姿勢の具体化の一つとして、原発視察後、津波の被害を受けた地域を上空から視察したはずだ。
だが、原発視察のとき、「原子力について少し勉強したい」としたことは東電側が緊急に解決しなければならない問題として立ち向かっていた、一歩間違えると重大問題となるとしていたに違いない事故対応の緊迫した状況と余りにも懸け離れた気軽なニュアンスの姿勢となっている。
いわば福島原発の事故に視察という形で関わろうとしたときでも、原発問題すら、真剣に背中に背負った態度とはなっていなかった。
当然、避難所に逃れた被災者救援対策や津波に流された行方不明者の救命対策もみな等しく背中に背負い、真剣な姿勢でそれぞれを全体として念頭に置いた視察ではなかったことを暴露していると言える。
もしそういった真剣な姿勢であったなら、「原子力について少し勉強したい」等といった不見識となる言葉は決して口を突いて出ることはなかったろう。
軽い気持で視察に及んだということである。既に地震の凄さ、津波の凄(すさ)まじさ、被害の甚大さを報道が伝えている中で、多くの被災住民がパニック状態になっているであろうことも想像できずに、「原子力について少し勉強したい」という気持で視察に出かけたのである。もしかしたら原発事故に対して重大な懸念すら抱いていなかったのではないか。
同じ言い回しになるが、多くの被災住民がパニック状態になっているであろうという状況を想像し、その状況を背中に背負い、念頭に置いていたなら、同時に原発事故に対しても重大な懸念を抱いていたなら、やはり、「原子力について少し勉強したい」などという言葉は決して口を突いて出ることはなかっただろう。不見識と取られても仕方あるまい。
普通の常識を持った人間なら、「大丈夫だろうか。大変なことにならなければいいが」といった言葉が口から洩れるはずであり、緊張で顔を蒼ざめさせてもいたに違いない。
3月13日(2011年)の当ブログ記事――《菅首相は今回の地震をチャンスとして自身の情報発信力に利用しようとしている -
『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に、〈菅首相は今回の地震をチャンスとして自らの情報発信力の一つに利用しようとしていたのでは〉と書いたが、やはり同見ても、原発視察も、その後の被災地のヘリによる上空視察も、自己発信力宣伝のパフォーマンスとしか映らない。
菅首相は本質的には緊張感を持ち得ない政治家なのではないだろうか。だから、どのような重大状況にあっても、一時もすると、満面一杯の笑いを見せることができる。だから、首相官邸の出入りで、両手の拳を握り、胸を張って厳しい表情の顔を作り、軍人風にいかめしい歩き方を示さなければならない。
緊張感のなさを殊更隠さなければならないからだ。自然な歩き方で緊張感を見せることができない。
首相官邸に「開かずの扉」がある。5階の首相・菅直人の執務室。3月11日の東日本大震災発生後しばらくは早朝から深夜まで怒号が響いていたが、震災から1カ月を迎える最近はトンと静かになった。中の様子はどうなっているのか。
■官僚の足遠のく
「やっと精神的な安定期に入った」「気力がうせているのではないか」−。そんな臆測が乱れ飛ぶ。各国外交官も政府関係者に「首相は本当に大丈夫なのか」と真顔で問い合わせてくるという。
なぜ扉が開かないのか。理由は一つ。よほどの緊急時でない限り、誰もノックしようとしないからだ。官僚であろうが、政務三役であろうが、誰かれかまわず怒鳴り散らす。ある官僚は東京電力福島第1原子力発電所の事故の最新状況の報告に入ったところ、菅から頭ごなしにこう言われた。
「そんな話は聞いていないぞ!」
日本の官僚は「首相がすでに知っている話を報告したら恥だ」と教育されてきた。マスコミに政策をスクープされることを嫌う最大の理由はここにある。ところが菅には通用しない。
官僚の訪問は絶えた。4月に入り、官僚が首相執務室を訪ねたのは7日まででわずか8組。ある官僚は吐き捨てるように言った。
「民主党政権であろうと大連立であろうと何でもいい。とにかく首相だけは代わってほしい。もう官邸を見るのも嫌だ…」
さすがの菅もまずいと思ったらしい。3月26日、前国土交通相・馬淵澄夫を首相補佐官に起用したあおりで首相補佐官を外された衆院議員、寺田学の机を首相秘書官室に置かせ、「開かずの扉」の“開閉係”を命じた。34歳の寺田は64歳の菅と親子ほど年が離れているせいか、腹も立たない。腰が軽く頭の回転が早いところも気に入っているようで妻・伸子と並ぶ「精神安定剤」となっている。
もう1人、頻繁に首相と会っている男がいる。内閣情報官・植松信一。官邸の裏通路を使い首相執務室に出入りするので新聞などの「首相動静」に載ることはないが、週に2〜3回は報告に入っているという。
植松の報告で菅がもっとも神経をとがらせているのは政界の「菅降ろし」の動き。次に気になるのは内外メディアが自らをどう報じているかだという。
ある官僚は執務室に山積された新聞や雑誌の切り抜きを見て愕(がく)然(ぜん)とした。記者団のぶら下がり取材に応じないどころか、災害対策基本法に基づく中央防災会議さえ開こうとせず、執務室に籠もって一人で新聞や雑誌を読みふけっていたとは…。そこに未曽有の国難にどう立ち向かおうかという発想はない。
■「現場見てないだろ」
「どんなことがあっても原発の異常を食い止めるんだ。みんな覚悟はできているだろうな!」
3月11日午後4時25分すぎ。東電福島第1原発の異常を伝え聞いた菅は、首相官邸地階の危機管理センターから執務室に移ると、官房長官・枝野幸男ら官邸スタッフを前にこう命じた。鬼のような形相に一人はこう感じた。「死者が出ることを覚悟しているな…」
東工大応用物理学科卒で「ものすごく原子力に強い」と自負する菅はさっそく執務室にホワイトボードを持ち込み、原子炉の格納容器への海水注入などを次々に指示。午後10時に経済産業省原子力安全・保安院から炉心溶融の可能性を指摘されると菅は12日午前1時半に炉内の蒸気を排出するベントを急ぐよう指示した。
ところが、東電の反応は鈍かった。しびれを切らした菅は午前6時14分、陸上自衛隊のヘリに乗り込み第1原発の視察を強行。「こっちは人命を考えてやっているんだ。早め早めにやらなきゃダメだ」と東電副社長・武藤栄に詰め寄った。
「東電の見通しは甘い。どうなってるんだ!」
菅の意気込みはますます空回りし、秘書官らに当たり散らした。保安院幹部らの説明にも「お前たちは現場を見てないだろ!」。面識もない官僚に突然電話で指示を出し「何かあったらお前らのせいだぞ」と責任をなすりつけた。
そして東電が第1原発からの撤退を検討していることを聞きつけると15日午前4時15分、東電社長の清水正孝を官邸に呼びつけた。
菅「清水さんだったらどうしますか?」
清水「残ります…」
菅は言質を取ったとばかりに5時35分に東京・内幸町の東電本社に乗り込み、「撤退などありえない。撤退したら東電は百パーセント潰れる」と恫(どう)喝(かつ)した。
感情まかせの行動にしか見えないが、菅は「原発問題は官邸主導でやれる」と確信したようだ。政府と東電の統合連絡本部を設け、東電本店に経産相・海江田万里と首相補佐官・細野豪志を常駐させた。主要官庁の閣僚不在により政府機能はますます失われた。
■説明に逆ギレ
「助けてくれないか!」
3月16日夜、元防衛政務官、長島昭久の携帯電話に細野の悲痛な声が響いた。
長島「何を?」
細野「『何を』なんて次元じゃないんですよ…」
菅は自衛隊にヘリからの放水を指示したが、自衛隊は放射線量を気にしてなかなか応じない。地上からの放水のオペレーションも自衛隊、警察、消防の調整がつかないという。 その間も菅からは「早く放水させろ」と矢のような催促が続き、細野はすっかり参っていた。
原子力災害対策特別措置法を適用すれば、首相はいろいろな指示が出せる−。これを説明すべく2人は17日に菅と面会した。
「指示はとっくに出した。なぜ進まないんだ!」
菅は逆ギレした。ところが菅の「指示」とは口頭で個別の官僚に命じただけ。これでは官僚組織は動かない。長島らは慌てて指揮系統を自衛隊に一元化させる関係閣僚への「指示書」を作成させた。これがその後の放水作業につながった。
それでも菅は納得しなかった。18日に官邸を訪ねた元連合会長で内閣特別顧問・笹森清にこんな不満を漏らしている。
「現場の意思疎通がうまくいっていないんだ…」
■「セカンドオピニオン」
菅の官僚機構と東電への不信は深まるばかり。東工大教授で原子炉工学研究所長の有富正憲らを次々と内閣官房参与として官邸に迎えたことは証左だといえる。
その数はすでに6人。「セカンドオピニオン」を背後に付け、菅はますます高飛車になった。東京電力や原子力安全・保安院などが自らの指示に抵抗すると「俺の知ってる東工大の先生と議論してからこい」と言い放った。
ところが、3月末になると菅はすっかり淡泊になった。細野が日課となった東電福島第1原発の状況を報告しても「そうかあ…」「それでいい」−。どうやら事態の長期化が避けられないことを悟り、気合を持続できなくなったようだ。
菅は4月1日の記者会見で「専門家の力を総結集しているが、まだ十分安定化したというところまでは立ち至っておりません」と長期化をあっさり認めた。
淡泊になったのは理由がある。東日本大震災の発生後、菅の頭は原発でいっぱいだったが、ようやくガソリンや物資供給など被災者支援が後手に回っていたことに気づいたようだ。
■政務3役も無言
実は首相官邸の指示がなくても各省庁は阪神・淡路大震災を先例にさまざまな被災者支援や復旧策をひそかに準備していた。ところが政務三役の「政治主導」が障害となった。
ある局長級官僚は「官邸も動かないが、政務三役も何も言ってこない」といらだちを隠さない。民主党政権になり政務三役に無断で仕事をやってはいけないという「不文律」ができた。「勝手なことをやりやがって」と叱責されるのを覚悟の上で官僚機構は黙々と対策を練ったが、実行のめどは立たない。政治不在がいかに恐ろしいか。官僚らは思い知った。
■自衛隊に多大な負担
自衛隊も官邸の機能不全の被害者だといえる。
「遺体の搬送や埋葬まで自衛隊が背負わされているんだぞ!」
3月23日、防衛相・北沢俊美は厚生労働省に怒鳴り込んだ。自衛隊の本来任務は行方不明者の捜索だが、遺体を発見すれば市町村に渡す。ところが市町村は被災で動けず葬儀業者も見つからない。やむなく遺体安置所から埋葬地までの遺体搬送や埋葬までも自衛隊が請け負った。救援物資輸送やがれき撤去などの任務にも影響が及んでいた。
北沢は3月18日に枝野に調整を求めたが、官邸の最終的な返答は「関係省庁でよく協議してほしい」。そこで北沢は埋葬を所管する厚労省との直談判を試みたのだ。
厚労相・細川律夫も「確かに自衛隊ばかりにお願いするわけにはいかないな」と応じ「官邸抜き」の調整が始まった。結局、事務レベルの関係省庁連絡会議が開かれたのは4月1日。運輸行政を担う国土交通省の協力を得て民間業者による遺体搬送態勢が整ったのは4月5日だった。
「政治家だけじゃなくてあらゆる者を総動員させるべきだ。要は役人をどう使うかなんだ」
国民新党代表・亀井静香は2日、こう忠告したが、菅はのんきに返答した。
「まあ役人を使えるのは一に亀井さん、二に私、三に仙谷さんだな…」(敬称略)
「自然災害に強い町、1次産業に根差す町、弱者に優しい町に再生したい」
「いくつかの漁港を重点的に整備する必要がある」
「仮設住宅は7万戸を当面の目標に進めたい」
首相・菅直人は10日、東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市を視察し、行く先々で復興支援を約束して回った。
避難所の石巻商業高校では女性らの前にひざまずき「つらいでしょうね。今何が一番必要ですか」。がれき撤去現場では自衛隊員らを「最高指揮官として誇りに思う」とねぎらった。地元FM放送にも出演し「元気よく復興への道を歩んでほしい」と呼び掛けた。
日米共同調整所がある陸自東北方面総監部(仙台市)にも立ち寄り、米軍関係者に「トモダチ作戦は日米関係を強めた。一生忘れない」と謝意を表した。
菅の被災地視察は実に3回目。「現場主義」を掲げるだけに面目躍如といったところか。久々に記者団のぶら下がり取材にも応じ「復興には相当の力が必要だ。新たな未来へのスタートだ」と決意を示した。 11日には有識者らを集めた復興構想会議を発足させる。これに先立ち視察すれば指導力を示す絶好の機会となると考えたようだ。 だが、意気込みと裏腹に被災者の目は冷ややかだった。菅に握手された漁師の男性は「がんばってくださいしか言えないのか…」。
その陰で復興計画は官房副長官として首相官邸に復帰した民主党代表代行・仙谷由人の下で着々と進む。2人の亀裂は刻一刻と広がっている。
「震災対応について大所高所からぜひお話をうかがいたいんです」
3月25日午前、首相・菅直人は電話口でこう頼み込んだ。相手は村山富市内閣の官房副長官として阪神・淡路大震災の対応に当たった石原信雄だった。会談はこの日午後に実現し、菅は半時間にわたり石原の話に耳を傾けた。
東日本大震災発生後、菅は東京電力福島第1原子力発電所事故の対応で頭がいっぱいとなり、被災者支援は後手に回った。 だが、原発問題の長期化は避けられず、被災地ではガソリン不足さえも解消できない。被災者の困惑は政府への怒りと変わりつつある。被災地支援で指導力を発揮しなければ政権を維持できない。菅はそう考えたようだ。
「官僚が動こうにも官邸が機能不全で動けない」。こんな批判は石原の耳にも届いていたが、石原はあえて触れず、党代表代行・仙谷由人の官房副長官への起用をほめちぎった。 「仙谷さんを災害対策に当たらせたのはよかったですね。特に事務次官を集めた連絡会議を作ったことの意義は大きいですよ」
菅は不愉快そうな顔つきに変わったが、ある提案に大きくうなずいた。
「復興政策を一元化する復興院などを作っても二度手間となる。対策本部で方針を決めたら直ちに各省庁が動く体制を作った方がよいのではないですか」
× × ×
大震災発生から6日後の3月17日、「原発問題に専念したい」と考えた菅は、被災者対策の要として仙谷を官房副長官に迎えた。
仙谷を全面的に信用しているわけではない。しかも仙谷は参院で問責決議を受け、1月の内閣改造で外れたばかり。それでもその手腕を借りざるを得なかった。「仙谷を野放しにしたらわが身が危ない」との思いもあったかもしれない。 官邸復帰後の仙谷の動きは素早かった。「乱暴副長官になる」と宣言すると直ちに被災者生活支援特別対策本部を設け、本部長代理に就任した。3月20日に各府省の事務次官たちを招集し、こう鼓舞した。
「カネと法律は後ろからついてくる。省庁の壁を破って何でもやってくれ!」
菅の癇癪(かんしゃく)と無軌道な指示に幻滅していた官僚にとって仙谷は「救世主」に映った。事務担当官房副長官・滝野欣弥は仙谷と共同歩調を取り、省庁幹部はこぞって「仙谷詣で」を始めた。
仙谷はすでに復興ビジョンも描き始めている。実動部隊として元官房副長官の古川元久らによる「チーム仙谷」を編成。週に数回、仙谷の執務室で策を練る。仙谷はこう力説した。
「天国は要らない。ふるさとが要るんだ。造るのはふるさとなんだ!」
× × ×
官邸の雰囲気は一変した。仙谷が官房長官時代に起用した秘書官らはひそかに仙谷の元に戻ってきた。前国土交通相・馬淵澄夫や衆院議員・辻元清美の首相補佐官起用は仙谷の意向をくんだ人事だとされる。
何より官房長官・枝野幸男は仙谷の弟分である。あっという間に、あらゆる案件を仙谷が差配する体制ができあがり、官邸は「仙谷邸」と化した。
仙谷の相談役である内閣官房参与の評論家・松本健一はこう打ち明ける。
「仙谷さんは『復興庁』を置き、自らが復興担当相になろうとしている」 もしかすると仙谷はある人物に自らを重ねているのかもしれない。関東大震災後に内相兼帝都復興院総裁として復興の礎を築いた後藤新平である。
× × ×
自ら招いたとはいえ、「陰の首相」の復活は、菅には面白くなかったに違いない。さっそく巻き返しに動いた。
「山を削り高台に住居を置き漁港まで通勤する。バイオマスによる地域暖房を完備したエコタウンをつくる。世界のモデルになる町づくりを目指したい」
菅は4月1日の記者会見で唐突に復興構想会議の創設を表明し、自らの復興ビジョンをぶち上げた。これは復興院構想の否定に等しい。石原からヒントを得て仙谷主導の復興を阻止しようと考えたに違いない。 はしごを外された仙谷は周囲に不満を漏らした。
「復興構想会議の具体的な話は一切なかった。俺は首相に外されている…」
それでも仙谷は「今は我慢の時だ」と考えたようだ。政務三役や官僚が復興策を持ちかけると仙谷はこう戒めるようになった。
「ここまでやったら首相が怒るぞ。待っておけ…」
待ったら何が起こるのか。少なくとも仙谷は次の布石を打ち始めたことだけは間違いない。(敬称略)
東日本大震災の発生から18日で1週間。東京電力福島第1原子力発電所の放射能漏洩事故に対する政府の対応は後手に回り、菅直人首相は与野党双方から「無策」と批判された。首相が自らの「勘」を信じ、押し通していれば、放射能漏れの危機を回避できた可能性もあったが、またも政治主導を取り違え、有効な施策をなお打ち出せないまま現在に至った。(今堀守通)
意外な自信
「外国籍の方とは全く承知していなかった…」
大地震が発生した11日、首相は参院決算委員会で野党の激しい攻撃にさらされていた。前原誠司前外相に続いて政治資金規正法が禁じる外国人からの献金が発覚し、退陣の一歩手前に追い詰められた。
ところが、この日午後2時46分の地震発生で一気に政治休戦となった。
決算委は急遽中断され、首相は直ちに首相官邸に戻り、危機管理センターの巨大モニターから流れるメディア映像を食い入るように見た。目にとまったのが、第1原発だった。
大津波をかぶって自動冷却装置が破損し、炉内の冷却が思うようにいかない、との報告が上がってきた。官邸内に緊張が走ったが、首相には野党の追及から逃れた安堵感とはまた別種の「意外な自信」(政府関係者)がみなぎっていた。
「まず、安全措置として10キロ圏内の住民らを避難させる。真水では足りないだろうから海水を使ってでも炉内を冷却させることだ」
首相の意向は東電に伝えられた。「これが政治主導だ」。首相はそうほくそ笑んだのではないか。
外に響いた怒声
だが、東電側の反応は首相の思惑と異なっていた。
10キロの避難指示という首相の想定に対しては「そこまでの心配は要らない」。海水の注入には「炉が使い物にならなくなる」と激しく抵抗したのだ。
首相も一転、事態の推移を見守ることにした。東電の“安全宣言”をひとまず信じ、当初は3キロ圏内の避難指示から始めるなど自らの「勘」は封印した。
「一部の原発が自動停止したが、外部への放射性物質の影響は確認されていない。落ち着いて行動されるよう心からお願いする」
首相は11日午後4時57分に発表した国民向けの「メッセージ」で、こんな“楽観論”を表明した。
ところが、第1原発の状況は改善されず、海水注入の作業も12日午後になって徐々に始めたが、後の祭りだった。建屋の爆発や燃料棒露出と続き、放射能漏れが現実のものとなった。
15日早朝、東電本店(東京・内幸町)に乗り込んだ首相は東電幹部らを「覚悟を決めてください」と恫喝した。直前に東電側が「第1原発が危険な状況にあり、手に負えなくなった」として現場の社員全員を撤退させたがっているとの話を聞いていたからだ。
「テレビで爆発が放映されているのに官邸には1時間連絡がなかった」
「撤退したとき、東電は百パーセントつぶれます」
会場の外にまで響いた首相の怒声は、蓄積していた東電への不信と初動でしくじった後悔の念を爆発させたものだ。官邸に戻った後も「東電のばか野郎が!」と怒鳴り散らし、職員らを震え上がらせたという。
「原子力に強いんだ」
初動のつまずきで「勘」が鈍ったのか。その後の政府の対応は一貫して後手後手かつちぐはぐだった。
「機能停止状態だ」
「一度に複数のことは考えられない」(周辺)とされる首相の関心がもっぱら第1原発の対応に集中した結果、被災地復興や被災者支援は後回しになった面もある。